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| 前田利家の甥にあたり、戦国の世を自由に生きぬいた傾奇者(かぶきもの)、前田慶次。上杉家に仕え、晩年は米沢に庵を結んだと伝わる慶次の足跡は、今も米沢市内の各所に残っています。 |
慶次は織田信長の知将として知られる滝川一益(たきがわかずます)のいとこ、益氏(ますうじ)の子として生まれましたが、前田利久(としひさ)の後妻となった母・ひさの連れ子として前田家に入りました。ゆくゆくは尾張荒子(おわりあらこ)城を継ぐはずでしたが、信長の命により城は利久の弟・前田利家に与えられることとなり、利久・慶次親子は放逐されてしまいます。 羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)の天下統一後、前田家に呼び戻されてしばらくは利家に仕えますが、養父利久の永眠で前田家との実質的なつながりがなくなると、慶次の「傾奇者」ぶりが始まりました。 ある寒い日、慶次は茶の席に招いた利家になんと水風呂を勧め、あまりの冷たさに利家が悲鳴を上げている間に名馬「松風」に乗って前田家を出奔。窮屈な武士の生活を嫌い、その後は京都に仮住まいを求め自由気ままな生活を送りました。 とはいえ慶次は和漢古今の書物に親しみ、千利休に茶を学ぶ風流人であり、一方で馬術・武道にも優れ多くの戦場で活躍したと伝えられています。そんな慶次が文武ともに己を凌ぐ人物、生涯の友として認めたのが直江兼続(なおえかねつぐ)であり、兼続が仕える米沢藩主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)に慶次もまた仕えることになったのでした。 上杉家には一千石で召抱えられ、組外御扶持方組頭(くみほかおんふちかたくみがしら)と呼ばれる自由な立場であったといいます。仕官にあたって慶次の条件は、「禄高(ろくだか)は問わない。ただ自由に務めさせてもらえば良い」というものでした。天下分け目の関ヶ原の戦いでは黒い具足に猖々緋(しょうじょうひ)(黒味を帯びた鮮やかな赤色。中国の伝説上の怪物、猖々の血で染めた色といわれる)の陣羽織、首には金の数珠という派手ないでたちで戦いに臨んで武将達を驚嘆させ、主君景勝についてめざましい活躍をしたといいます。 その後は米沢で堂森山北東のほとりに「無苦庵(むくあん)」を結び、風花吟月を友として悠々自適の生活。この庵で記されたのが「無苦庵記」で、自らの人生を“欲もなければ罪もない”とし、「生きるまで生きたらば 死ぬるでもあらうかとおもふ」と結んでいます。 没年には諸説がありますが、多くの史料によれば慶長十七年(1612年)六月四日に亡くなり、米沢藩内にあった堂森善光寺または北寺町一花院(現在は廃寺)に葬られたとされています。 傾奇者と呼ばれながらも権力に屈しない男気を持ち、風流を愛して戦国の世を自由に生きた男、それが前田慶次です。 |
・一花院跡 一説では前田慶次が埋葬された寺といわれますが、現在では廃寺となり、墓の場所も不明となりました。 ・前田慶次供養塔(堂森善光寺) 慶次の庵「無苦庵」があった地区で、こちらにも埋葬の説があり、昭和55年に供養塔が建てられています。 ・慶次清水 無苦庵のほとりに湧いているのを前田慶次が発見し、生活用水として使用していたと伝えられる清水。現在は水も減少しましたが、原野が広がり、点在する森林には美しい湧水があふれていたという往時の風景に想いを馳せるのもまた一興です。 ・無苦庵跡 慶次が晩年暮らした庵があったといわれる場所。現在は工業地帯に通じる道路によってその面影はありませんが、「無苦庵記」などを記し、慶次がもっとも安らかな時を過ごした場所であることから、いまなお彼を慕う人々が訪れます。
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この日記は、慶長6年10月26日、慶次が京都伏見を発ち、翌11月19日に米沢に到達するまでの26日間の道中日記で、慶次の自筆本と伝えられています。道中の様子や土地の逸話などと共に、俳句・和歌・漢詩も記され、文学への深い造詣も伺えます。 ・ 赤塗りの甲冑(米沢市宮坂考古館所蔵) 正式名称は「紫色威赤塗五枚胴具足(むらさきいろおどしあかぬりごまいどうぐそく)」。赤塗りの派手な胴と草摺、南蛮笠式の兜、金色鱗型の袖と、その威風なさまはいかにも慶次好みといえます。しかし籠手(こて)や佩楯(はいたて)は鉄の鎖繋ぎで、動きやすさや丈夫さなど、実戦にも適した造りになっています。 ・ その他 ○亀岡文殊奉納詩歌百首(高畠町亀岡文殊堂所蔵) 慶次が詠んだ和歌五首が納められています。 ○能面・槍・編笠など(米沢市内民家所蔵) 慶次が庶民と親しく交流したことが伺えます。 |
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